今日はちょっとだけ、哲学っぽいお話を書かせて頂きます。
テーマはずばり、「自分って何だろう?」です。
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■ 自分って、ひとつに決められるもの?
私たちは、ついこんなふうに思ってしまいがちです。
• 「私はこういうタイプの人間だ」
• 「こういう性格で、こういう趣味があって」
• 「こういう仕事をしてて、こういう立場で」
あるいは、
• 「将来はこんな風になっていたい」
• 「こうあるべきだ」
という理想かもしれませんが、
そうした“自分像”は、安心や希望をくれるし、私たちを守ってくれる“輪郭”になります。
でも──
その「私」、ほんとうに“本当の私”でしょうか?
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■ 朝の自分と、夜の自分は、同じ“私”?
たとえば、こんな経験はないでしょうか?
• 家族と一緒にいるときの自分と、職場での自分がまるで違う
• 落ち込んでいるときと、テンションが高いときで性格すら変わって感じる
• 数年前の自分の考え方が、今では信じられない
こうした違いは、単なる「気分」や「状況」の問題ではなく、
時間の中で、少しずつ変化している“私自身”そのものかもなって、考えてみたんです。
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■ 固定された「自分像」とは?
私たちが「私はこういう人」と信じているそのイメージを、ここでは「自分像」と呼びます。
この“自分像”は、過去の経験や評価などから形づくられ、
「私はこういう性格だ」と時間を止めてしまった像。
「こうでしかいられない」などの思考よる像。
それらは、まるで彫像のようです。
便利で、安全で、居心地もいい。
でも、そこにずっと留まり続けると、
変化し続けている“今の私”を、その中に閉じ込めてしまうかもしれません。
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■ “変わりつづける私”──それが「時分像」
そこで提案したいのが、「時分像(じぶんぞう)」という見方です。
これは、「時(とき)」と「分(わかれ)」という漢字を組み合わせた造語で、
変わりつづける時間のなかで、
他者との違いや過去との分かれを通して、
一時的に現れている、現れては、うつろっていく私の残像のようなもの。
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■ 「時」と「分(わかれ)」ってどういう意味?
• 「時」は、流れていくもの。変わり続けるもの。
昨日の私と今日の私は、ほんの少しだとしても違っている。
その変化は、誰かの言葉、空の色、通りすがりの音楽、そんな“出会い”によっても、生まれてきます。
• 「分(わかれ)」は、他者との違い、過去との境目。
誰かとわかり合えないこと、思ってもみなかったすれ違い、
過去の自分と今の自分の考え方のズレ——そういった差異すべてが「分」です。
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■ 「私」は、鋳型ではなく、“揺らぎ”そのもの
だから、「私はこういう人間だ」と一枚のラベルで決めてしまうと、
時間の中を動く“私”を、鋳型に閉じ込めてしまうことになる。
でも、本当の私は——
そのラベルの内にも外にも、留まれるような性質のものではないんです。
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■ 誰かとの出会いが、“私”をほどく
あなたは、固定された像ではありません。
時間の中で、そして他者との“違い”を通して、
絶えず揺らぎながら、形を変え続けている「時分像」です。
私たちは、他者との関わりのなかで深く揺さぶられます。
言葉だけじゃなく、
視線や沈黙、すれ違い、触れ合い、あるいは熱のこもった交感の中で──
身体の奥、そんな場所があったなんて知らなかったようなところを、
誰かによって、日々、気づかされます。
確かにあるけれど、誰にも気づかれないくらいの、微細な動きとして、静かに。
しかし時には劇的に、開かれてしまうことも、ありますね。
そのとき、「自分」だと信じていた像が、音もなくほどけてゆく。
それは崩壊ではなく、あらたな生成です。
“感じる”ということは、
あなたの未来が、誰かを通して、いま、あなた自身を導いているということ。
だからこそ、
気づかなかった感情、欲望の芽生え、思いもよらぬときめきに出会ったとき、
どうか、否定しないで受け止めてみてほしい。
その湧き上がる力は、
“誰か”という他者を通して、あなたがもっと深い「私」に触れた証——
そんな気がします。
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■ 最後に
誰かとのズレや、すれ違いに傷ついたとき。その“違い”のなかに、自分の新しい形が浮かび上がります。
「私はこういう人」と決めつけるのではなく、
「私は、いま、ここで、この変化のなかにいる」と感じること。
あなたがもし、これからのどこかで、
自分がわからなくなって立ち止まったとしても、
その不安定さの中には、まだ形を持たない未来のあなたが、必ず息づいています。
だからこそ──あなたは、時分像を体験することができます。
揺らいでも、誰かに刺激されて、ふるえてしまっても、それでいい。それがあなたの”今”だと思うのです。



