コロナ禍と反ワクの思い出
コロナ禍の際、スピや陰謀論界隈は反ワクチンで盛り上がっていた。
ワクチンを打つとかえって体調が悪くなる。
実際に副反応で亡くなってしまった方々もいた。
ワクチンを打った人が誰かを触ると、触った対象にもおぞましい物質が伝播するというシェディングという概念も見られた。
しかし、実際にコロナに罹患した患者が嵐のようにやってくるのに、
白血病や免疫不全などの小児患者さんがそばにいたら、どうしますか?(私は打った。)
打たない人も中にはいたが、感染対策を徹底して罹患を免れてた。
打たない選択をした人は「ワクチン打ってたのに仕方ないね」という逃げ道はなかった。
一方でワクチンに反対した人の気持ちもわかる。
若年層リスク、ワクチンパスポート、SNS検閲など、もっと議論の余地があったはず。
不確実な状況で私は何を根拠に信じ、誰のために決断したのか。
この思い出は倫理観の問われたエピソードとして、多くの方に、またご覧の方にも心当たりがあると思う。
津波について
震災時の津波の映像は、多くの人の脳裏に焼き付いている。
その後、某アニメ映画やメディアで、現実転覆の象徴として津波が使われるたびに、
私は苛立ちと幻滅を覚えた。
今でも「あの震災には宇宙的な○○という意味があった」といった言質が見られるが、
ちょっと待って欲しい。
チャネリングだか何次元との交信だか知らないが、
「あなた自身はその時何を経験したのか」の方が重要なんじゃないの???
そこから離れたら、どんな素晴らしい意味付けだって、角度によっては残酷だよ。
自分がその時、何を感じてどう行動していたの方が嘘がないじゃん。
もちろん未曾有の体験から、宗教的な意味やスピリチュアルな意味を見出した人を否定しない。
(私だって出発点は「なんだこの意味わからんスピった経験は!」だもん。)
でも少なくともそれを語るなら、
「私はあの時こう感じた」
から入ろうよ。
「○○星人がそう言ってる」という主語を額面だけ提示されても信用できない。
私が知りたいのは宇宙人の意見じゃなくて、
その言葉を受け取った人が、何を見て、何を感じて、どう変わったかの方。
経験を通過しない意味付けが存在を殺すんだから。
つまり、精神より身体の方が次元が高いんだよ、分かれよ💢
純粋な個を疑う
…まあ、こういうふうに熱くなればなるほど、最近の冷笑文化・冷笑マウントにさらされるのだが…(笑)
経験へのコミットメントを避けて、ずっと安全圏から鼻で笑ってるようなら後が痛いぞ😈
だってね。
何にも傷つかず、
何にも巻き込まれず、
自分の都合だけ考えて何にも賭けずにいると、
最後には「自分らしい自分」が残ると思うじゃん?
…残らないんだな〜、これが😈✨
なぜかというと、
「私はあの時こう感じた」「私はこう感じている」に立ち返れば、
その「感じた私」って、
完全に単独で存在してる?という問いが出てくる。
患者がいる。被災者がいる。家族がいる。
つまり、感じる時、必ず私以外の誰かがいたとわかる。
困ったことに、
「私はこう感じた」を突き詰めると、
今度はその“私”の方が怪しくなってくるんだ。
だからここで、
純粋な個
や
本来の私
ありのままの魂
という概念があやふやになる。
「ありのままの魂」☝️🪽
魂…これがどういう状態かと言えば、
誰の影響も受けず、
何にも規定されず、
純粋な自分としてキラキラ存在する状態──
とは、私には思えない。
私は生まれた時から他者の中で育ち、
他者との関係の中で傷つき、
他者との関係の中で喜び、
他者との関係の中で「私」になってきたからだ。
患者がいたから、あの決断があった。
津波の映像があったから、あの怒りがあった。
あの別れがあったから、今の私がいる。
あの人がいたから、あの恋があった。
それらを全部剥がした先に、
本当に「純粋な私」なんて残るのだろうか。
もし残ったなら、
それは誰とも出会ったことのない私。
仮にそれが存在しても、
私は、そんな私に会いたいとも、共に寄り添いたいとも思ったことがない。



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