⑴痛みや悲しみ、高揚感や達成感…。
そうした感情が“空間化”していくとは、
自己の身体性と、自己の視点のあいだに、ある種の距離が生まれることを意味するのかも知れません。
言い換えれば、自己の視点が、
肉体を伴った“感情の主体”から分離されはじめる。
その感情が、自分の「内側」ではなく、「空間の中」に浮かんでいるように見える。
それはまるで、感情が距離を持った“対象”のように現れていく…。
視点と身体感覚のあいだに、わずかな隙間が生まれはじめているということは、
その視点は、自分の頭の中や、心の奥から感じられるものというより、
少し外側から「今の私」を見ているようです。
感情が“私そのもの”だった状態から、
「感情を見ている自分」が立ち上がる。
それは、世界と自己のあいだに“空間的な関係性”が生まれはじめているというサインでもあります。
⑵ 私には持病があって、定期的に体調を崩すことがあります。
その際に感じる痛みや不快感が、このプロセスを経るうちに、少しずつ変化していきました。
以前は、その感覚に情緒までもが引きずられ、
「どうしてこんなことに…」「私が何をしたっていうのよ」と、心まで痛みに巻き込まれていました。
けれど、先ほど述べた“視点の変化”を体験するうちに、
その関係が少しずつ変わってきたのです。
たしかに痛い。たしかに苦しい。
でも、痛みのど真ん中に沈むのではなく、その痛みを抱えている自分自身を静かに見ているような感覚が増えてきました。
同じように、この照りつける夏の暑さや、耳に届く室外機の音、
体調変化、感情の波に、むやみに振り回されることが減ってきたと、気づきます。
⑶アイデンティティが剥がされることは、自己崩壊ではない。
かつての私は、「こうあるべき」「こう見られたい」という理想像にしがみついていました。
母として、社会人として、大人として——その役割が自分自身だと信じて疑いませんでした。
でも、少しずつ、その“自己像”が崩れはじめたとき、私は一つの恐れに直面します。
「じゃあ私は、いったい何者なんだろう?」
…けれど、その問いの向こうにあったのは、予想に反して“崩壊”ではなく、静けさでした。
喪失ではなく、空白。
「私はこれ」と言い切れない、その曖昧さの中に、息づくような生の実感がありました。
自分を定義していたラベルが剥がれていくとき、
私は初めて、本当の「いま・ここ」に立ち会えるようになってきていると、
力強いものが、時おり胸に、込み上げます。
何者にもならなくていいという気楽さ。
どこかに到達しなくてもいいという、やさしい許し。
そんな穏やかなまなざしで、今の私自身を抱きしめられるようになっているのかも、知れません。
⑷この子がいるから、私は体験できているという慈しみ
最近私は、「共視(きょうし)」という言葉に強く惹かれています。
それは、“いまの私”の視点で、“かつての私”と共に世界を眺めるという感覚。
たとえば、幼い頃、傷ついたまま大人になった「この子」がいたとして。
その子の目に映る世界を、いまの私がそっと一緒に見つめてあげる。
同じ風景を、同じ痛みを、ともに感じる。
そうすると、不思議とその子は少し安心したように、力を抜いてくれるのです。
「この子がいてくれたから、私はここまで体験してこれたんだ」という懐かしさ。
そんな風に感じるとき、私は、この子の視点ごと、
空間そのものをまるごと抱きしめたくなる気持ちになります。
スピリチュアルで言う「波動を上げる」という言葉があるけれど、
それは、必死に自分を高めることではなく、
視点が変わることで自然と“世界が変わって見える”体験なのかもしれません。
⑸自己愛は、物理的な意味で奥深い。
自己愛は、人格が成熟したから得られるものではないし、
何か特別な“私”になったから手に入るものでもない。
むしろそれは、もっと根源的なもの。
すでに私たちの構造の中に、あたりまえに備わっている愛なのだと思います。
ただ、日常の中で、役割や期待に埋もれて、それを忘れているだけ。
思い出すきっかけが、どこかでやってくるのは、
宇宙からの介入なんだと、はっとさせられます。
痛みや、揺らぎや、視点の転換を通して、
その静かな記憶が、胸の奥によみがえってくると…確かに、思えてきます。
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