💛はじめに
近年、「恋愛に興味がない」「恋人はいるけど恋愛感情がわからない」といった若者の声が増えている。
背景には、「コスパが悪い」「面倒」「恋愛コンテンツは終わった」といった意見もちらほら。(当然、建前かもしれないけれど。)
一方で、SNSでは「推し活」「ゆるい関係」「セクシュアルマイノリティ的感性」が広がり、
そこには、「非モテの言い訳」「自己否定からくる自虐」「回避行動」などと揶揄される側面もある。
ならば恋愛とは、異性関係とはを考えるために、「愛とは何か?」「異性の本音ってこういうものである」といったショート動画や本を見ても、
「分かるようで分からない」「そうとは言い切れない」と感じることが圧倒的に多い。
この“分からない”には、もっと深層的な変化が潜んでいるのではないだろうか。
🧡恋愛の本質と、私たちの欲望
私たちは長らく「恋愛」と呼ばれるものを、自分自身の欲望と捉えてきた。
でも今の若者は、ふとこう感じ始めているのかもしれない──
「それって、本当に私が求めているもの?」と。
外見を整え、魅力を磨き、選ばれることを目指す行為――
一見自発的に見えて、じつは「感情」が競争モデルへと組み込まれているのが透けて見えて、
…正直「萎え」なのだ。
恋愛ドラマ、婚活アプリ、結婚式産業、愛され顔メイク……
これらは感情を“競争市場で機能する資本”として扱い、
「きれいになること/強くなることは自分のため」と言うけれど、
その裏には「比較される」「評価される」という市場構造を内面化する仕掛けがある。
私たちは恋愛や結婚のために市場へ“参入”し、
“エントリー”し、“市場での位置づけ”を意識して感情をデザインするようなレールがすでに敷かれていた。
若者たちは、その“感情の市場空間”に、知ってか知らずか違和感や疲労を感じ始めているのだろう。
💜社会学者エヴァ・イルーズの視点
社会学者エヴァ・イルーズは、「恋愛は近代の発明」であり、
映画、広告、心理学、セラピー文化などによって再生産された社会装置だと指摘する。
とくに、「治療的ナラティブ」の枠組みによって、
「なぜ恋愛がうまくいかなかったのか」「傷ついたのはなぜか」などを、
「心の問題」「自己肯定感の不足」といった個人の内面に帰属させる傾向がある。
確かにこの語り口は、癒しや秩序をもたらす一方で、
感情のリアルな揺らぎが、いつしか「心の病」や「成長の足りなさ」として寸断され、
個人責任として処理されてしまう危険性を孕んでいる。
つまり、感覚されている「よくわからない」という違和感は、
すでに“自己責任”の枠の中で曖昧にされ、問いそのものが見えにくくなっているという、問題定義となっている。
💙今、問うべきこと
これは、「自分には恋愛する価値がない」「結婚に希望を持たない」といった話ではない。
むしろ「私の本当の感情は、定型的な語りの中には存在しない」という、
個々人の繊細な感受性が、自らを守るための反応なのではないか。
確かに「治療的ナラティブ」は一定の優位性があったとイルーズ自身も語っており、
私自身もその構文に助けられてきた一人である。
それでも、イルーズの枠組みは、
「どれだけ癒されても、それでも分からない」という不完全さに、言葉を与えてくれる。
❤️恋愛の新しいナラティブへ
恋愛の多様化、あるいは意図的に恋愛をしない選択は、
じつは非常に主観的で知的な態度なのかもしれない。
「恋愛をしない」「恋愛ができない」は、決して無気力でも言い訳でもない。
それは「見えない領域への感受性の鋭さ」の表れであり、
「社会構造に奪われたままの感情を、自分に取り戻そうとする、生命的な反応」かもしれない。
もちろん、恋している人もいるし、「会いたい」「一緒にいると世界が変わって見える」関係もある。
大切なのは、恋愛経験そのものが消えたわけではなく、
その「語り方」や「コード」が揺らいでいるということだ。
イルーズが指摘した「治療的ナラティブ」は、かつて人々に自己理解の枠を与えてきたが、
今やその枠は機能しにくくなっている。
だからと言って恋愛そのものが終わったわけではない。
むしろ、モデルが崩れたからこそ、遅れてやって来る恋愛感情や、
まったく別のかたちで現れる関係が登場し始めているのだ。
たとえば「告白や交際の枠がないまま、時間をかけて育む関係」、
「依存や役割期待のないゆるやかな繋がり」、
「セクシュアリティやジェンダーを超えた複層的な絆」など――
「婚期が遅い」と言われる現代でも、
恋愛は“ひとつの物語の終わり”を経て、まだ名づけられない新しいナラティブを、
模索している段階にあるのかもしれない。
💚感情のコモンズを取り戻す
かつて、恋愛ドラマは個人の恋心を「共有可能な物語」に昇華し、
共感できる感情地帯を作り出していた。
しかし今、それらのコモンズは失われ、恋愛は完全に私的な内面世界へと引きこもっている。
もし再び“私たち”で感情を編む場が生まれるなら、
それは消費される“ストーリー”ではなく、共鳴し合う“実感の場”かもしれない。
🩵おわりに
AI時代において、あらゆる感情や関係性がアルゴリズムに予測される中、「性」だけはなおも、身体と実感を通した“最後の聖域”として残されているのかもしれない。
それは、合理性を超えた“分からなさ”と“揺れ”を伴いながら、今も私たちの内側に問いを差し出し続けている。
…
とはいえ……
あまり張り切って語りすぎると、娘に「お母さん、どうせ若者の気持ちなんてわからないでしょ!」って言われそうだから、
今日はこのくらいにしときます。おしまい。
催眠の手法も取り入れて、自己統合や次元上昇のお手伝いをする誘導blogを書いています。面白いと感じて頂けたらぽちっと応援をお願いします(人•ᴗ•)✨感谢
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