私はある出会いをきっかけに、世界の見え方が一変したことがある。
色彩は発火し、音は立体化し、あらゆる対象は以前より強く存在するようになった。
その日以来、私の認識と身体はあまりにも変わった。
経験したことのない生命の奔流に巻き込まれ、私はそれを受け止める言葉を持たなかった。
だから宇宙やエネルギーや宗教的意味づけといった言葉を模索した。
けれど今の関心は、そうした説明にはない。
本稿の関心は、その体験の特殊性ではなく、そこで開かれた認識の構造にある。
知りたいのはただひとつ。あの時、いったい何が起きていたのかだ。
【疑問】宇宙や無限のエネルギーがあるという前提への違和感
「宇宙は無限です」
「無限のエネルギーがあります」
「そのエネルギーに乗れば人生は好転します」
スピリチュアルや自己啓発では、そんな前提から始まっている場合多いように見受けられる。
もちろん、その発想が魅力的なのは分かる。
苦しみも出会いも偶然も、
説明のできない不可解な体験についても、ひとつの原理から説明できるからだ。
しかし私は、いつも少しひっかかる。
宇宙がある。エネルギーがある。集合意識がある。
その前提を私たちは本当に経験したのだろうか。
むしろ逆ではなかったか。
誰かと出会った。
身体が何かを感じた。
景色が変わった。
言葉にならない何かが起きた。
そして私たちは、その出来事を理解するために「宇宙」を呼び出している。
だとすれば、宇宙は最初にあった説明原理ではなく、
経験のあとから現れる物語なのかもしれない。
ここでは宇宙という巨大なメタファーを否定するのではなく、
宇宙を説明として先に置く思考の癖を一度ほどき、経験そのものに立ち戻ってみたい。
【Ⅰ】安全基地から隙間をのぞく
説明原理を持つことは、不安を和らげたり出来事を理解したりする助けになる。
「宇宙の躍動がある」
「自分は存在を肯定されている」
そう捉えることで救われる瞬間もあるだろう。
ただ、その説明を採用した瞬間に見えなくなるものもある。
宇宙やエネルギーという言葉を持ち出す前に、私たちはすでに何かを受け取っている。
誰かを見ている。
世界を見ている。
身体が何かを感じている。
説明より知覚は先だつ。
それでも私たちには、世界を宇宙の側から説明しようとする向きがある。
宇宙がある
↓
地球が浮いていて世界がある
↓
私がいる
だから「宇宙の流れが私を動かしている」という発想も自然に生まれる。
しかしそこには暗黙のうちに、
世界の本質は私の外側にあり、私はそれを後から認識するという前提が入り込んでいる。
だが本当にそうなのだろうか。
私たちが最初に出会うのは宇宙そのものではなく、
何かを経験しているという事実ではないだろうか。
【Ⅱ】経験と説明の順序
宇宙やエネルギーが実際にあるかは一旦エポケーし、
手前味噌で恐縮だが、実際に私に起こった一瞥体験について考える。
ある日、私はある人と目を合わせた瞬間に世界の見え方が一変する経験をした。
その時、私は対象との距離から押し出され、
それまで立っていた世界の外縁へ、潮が引くように運ばれたと感じた。
それが発見だったのか生成だったのかは分からない。
ただ神秘体験や宗教的経験などの解釈をすべて引き剥がしたあとにも、
なお残り続けるものがある。
それは、
「対象とのあいだに、それまで見えていなかった奥行きが現れた」
という出来事だ。
思い当たる人もいるかもしれない。
誰かとの出会いのなかで、あなたと私の間にある、言葉にしきれない「厚み」を。
【Ⅲ】見えるとは何だ?
普通、私たちは、
私が見る → 相手や物🍎を→ それを認識する
と思っている。
つまり、「私」という主体がいて、「対象」があり、その関係として認識が成立している、と。
だが、「エゴは幻想だ」という語りに従うなら、この構図そのものが揺らぐことになる。
見る主体としての「私」もまた、固定した実体ではないということになるからだ。
私という中心が世界を見ているのではなく、それぞれの場所で流動的に経験が立ち上がっているだけ――。
それは確かにひとつの洞察だろう。
しかし私の経験では、認識のあり方が変わったからといって、
主体や対象が溶けてしまったわけではなかった。
むしろ、それまで見落としていたものが現れてきた。
それは、私と対象の「あいだ」だ。
もちろん知覚が変化したと言うこともできる。
だが私がここで強く感じたのは、関係の質量が変わったことだった。
そう考えてみると、私という主体が対象を見ているというより、
主体と対象のあいだで〈見ること〉が起きているように感じられる。
いや、さらに言えば、主体と対象が分かれる以前から、
すでに〈見ること〉そのものが起きていたのかもしれない。
だからこの「見ること」も、「見ている対象」も、「見られること」も、
固定された実体どうしのやり取りというより、ひとつの出来事として現れているように思えてくる。
ここから見えてくるのは、
私と対象は切り離された二つの実体ではなく、関係のなかで同時に現れているということだ。
ただ、それは融合ではなかった。
むしろ、より鮮明に分離。
対象は私にならない。
私も対象にはなれない。
届かない距離が残る。
そしてその距離こそが、私と対象のあいだに奥行きをもたせ、
関係そのものを経験させている。
【Ⅳ】むしろ他者ははじめて他者となる
木は木、鳥は鳥、人は人、私じゃない。
差異は消えない。
いや、差異が濃くなったからこそ、奥行きの深度や色調が上がっている。
私があの日に経験したのは、世界がひとつになることではなかった。
木はより木になり、
鳥はより鳥になり、
相手はより相手になった。
だから「宇宙は無限」「大きなストリームがある」という認識に共鳴するだけに偏っては平面的になる。
一方で、差異や視差(パララックス)ばかりに偏れば、
今度は断絶になって少し寂しい。
私たちには共有されているものがある。
しかしどこまでも一致はしない。
だから他者は消えない。
融合ではなく関係。
同一化ではなくコントラスト。
差異が消えないからこそ、私たちは出会うことができるなら、
それは欠陥ではなく、関係が成立するための条件。
ならその世界の広がりを、私たちは宇宙と呼びたくなるのではないか。
【Ⅴ】宇宙という間主観
だとすれば宇宙とは、最初から完成された舞台だろうか。
私にはむしろ、世界そのものが私と他者のあいだに開かれる関係のなかでしか現れないように思う。
そこでひとつの素朴な疑問を持つ。
私たちは普段、
宇宙
↓
時間
↓
空間
↓
認識
という順番で世界を考えている。
しかし私たちが実際に経験する側から見るなら、
注意
↓
差異
↓
距離
↓
空間
↓
時間
↓
宇宙
という逆向きの見方もできるのではないだろうか。
もちろん、これが宇宙の真理だと主張したいわけではない。
これは仮説であるが、
私たちが「宇宙」と呼んでいるものは、はるか上空の遠い場所ではなく、
私と他者のあいだに生じる差異や距離、
その重なりから開かれ続ける経験の地平なのかもしれない。
考えてみれば、
体験として最初に出会う宇宙は必ずしも星空ではない。
母の胎内にいる時からそうだ。
その時の宇宙は、赤く脈動する胎盤だっただろう。
では、その差異や距離とは何なのだろうか。
【Ⅵ】対象とのあいだに開く厚みとは
ところでこの厚み、
私と対象の距離が5mから10mになったという話ではもちろんない。(笑)
それは物理的距離というより、
私と対象が互いに現れてくるための「場」のようなものだろう。
その場が開くとき、私だけが相手を見ているのではない。
相手もまた私を見ている。
そして見られることによって、私もまた『私』として現れてくる。
私たちは同じものを見ているわけではない。
同じ世界を同じように理解しているわけでもない。
むしろ、それぞれ異なる場所から世界に触れている。
しかしそこに視差(パララックス)があるから、
世界は平面ではなく奥行きをもって立ち現れる。
もし完全に同じなら、私たちは二つの眼を持つ必要すらなかったろう。
この厚みは、主体と対象が成立する関係、
その立体性を指しているのかもしれない。
【Ⅶ】関係の結節点
私たちは普段、物や人を独立した実体として考えがちだ。
しかしここまで見てきたように、私たちが経験している世界は、
そうした実体が先にあって後から関係を結ぶだけでなく、
むしろ関係のなかで物も人も現れてくるように見る向きもある。
言語なら単語だけでは意味にならないが、文法だけでも何も語れない。
私たちはその両方によって意味を経験している。
人と人との関係も、どこかそれに似ている。
ハイデガーは壺を単なる物とは見なさなかった。
水を汲み、酒を注ぎ、人と人を結びつける。
そうした関係のなかで、壺ははじめて壺として働く。
壺とは関係を開く結節点だった。
また西田幾多郎も、物より先に「場所」があると考えた。
私は彼らの哲学を十分理解しているとは言えないが、
少なくとも、私たちが「物」や「他者」と呼んでいるものは、
孤立した実体というよりも、関係のなかで生成され続けているように思える。
そして『私』も例外ではない。
私という肉をまとった存在は、世界の外縁からただ世界を見ているのではない。
『私』自身が他者との距離や視差のなかで生成される、
ひとつの関係の結節点なのかもしれないと見えている時、
他者は私の片目ではなかった。
私が片目で見ていたのだ。
【まとめ】
私と他者のあいだこそが、時間や空間、ひいては宇宙なのだとしたら、
どうしたって孤独ではいられない。
ミクロもマクロも、遠さも近さも、上も下も、すでに互いを含み合っているからだ。
それを窮屈と呼ぶか、愛と呼ぶかは、各人の自由だ。
もはや私が知りたいのは宇宙の法則ではなくなった。
なぜ差異がありながら、私たちは世界を共有できるのか。
なぜ言葉にしきれない関係が成立するのか。
なぜ他者は他者のまま、存在してくれているのか。
宇宙法則を理解するのもいいけれど、宇宙ができるところを見てみよう。
そこにはまだ、言葉になりきれていない何かがある。
ナンチャッテ\\\\٩( ‘ω’ )و ////
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